昨日からの続き
ビアトリクス・ポターは1866年のイギリスで生まれた。時はヴィクトリア朝、裕福で厳格な家庭で育ったポターは学校に通うことも許されず、家庭教師に学んだ。
ポターの友人は、ペットの動物達で、カナリア、アヒル、ウサギ、ネズミ、絵本に登場するおなじみの顔触れから、ヘビやカエル、サンショウウオまで飼育していたという。家庭教師の1人は、ポターのその観察眼を見抜き、デッサンや水彩画の手ほどきをすると、みるみる間に画力は向上していった。
中でもうさぎを描くのは、ポターのお気に入りだった。
うさぎについて、「状況によってめまぐるしく表情がかわる生き物」と、記している。
うさぎの名画は世界各国に沢山あるがポターほどうさぎを描ききっている画家はいない。
ピーターはかわいいうさぎのキャラクターとは一線を画す。ポターはうさぎの骨格、筋肉、動作、仕草、どんな時にどんな表情になるか、全てわかって描いている。
四足歩行の生き物に服を着せて歩かせて、自然な説得力をもたせるのはとてつもなく難しいことなのに、ポターはさらっと描いているように思える。これは生物学的な理解が根底にある。
ポターは、抑圧された自分の感情を絵と文に解放した。日記は内容を知られることを恐れ、複雑な暗号文を使っていたという。(なんと晩年は本人にも解読できなかったと…死後も専門家に解読されるまで5年を要したそう。)
植物をスケッチしてるうちに菌類の魅力にとりつかれたポターは、植物学者を志すも、女が書いたというだけで、ポターの論文ははねのけられた。学者への夢破れ、親の決めた相手との結婚に気が進まないポターは、書きためていたうさぎの物語を、絵本として出版することで自立への道を拓いていく。
ポターは一説では、ペニシリンのはしりを発見した第一人者とも。
緻密なスケッチを観るとポターの情熱が伝わってくる。
もともとは小さな友人への見舞いの手紙として思いつくままにかいたのが「ピーターラビット」のお話だった。
ポターが絵本の出版において曲げられなかったのは①子供の手におさまる小型の絵本②子供が小遣いで買える廉価な絵本③水彩画の印刷の精度に妥協しない、これら3点は現代においても、ピーターラビットが売れる絵本となった重大な要素だと言える。
晩年は絵本の収入に叔母からの相続金を少し足して、湖水地方のヒルトップ農場を購入し、農場経営をする傍ら、キャラクター商品の著作権登録に声をあげるなど、商才にも恵まれた人だったとわかる。
ポターの豪傑ぶりは最期まで。自分が亡くなる前に、所有する土地、水彩画、写真をそっくりそのままナショナルトラストに寄贈してしまう。(ナショナルトラストはイギリスのボランティアによる自然保護団体)
だから150年経った今も、湖水地方を訪れるとポターが描いた景色を拝むことが可能なのだ。
素晴らしい絵本だけではなく、景色まで…ポターの遺していったものははかりしれない。
ポターが男性だったら、論文が認められてピーターラビットの絵本は存在しなかったかもしれないのだ。禍福は糾える縄の如し!
ポター、ブルーナ、いわさきちひろ、これが私の絵本作家三大巨頭である!!
ブルーナ編↓
以前実家で暮らしていた茶色の子。
見た目はピーターにそっくりで、性質はふきちゃんと真逆。だらだらだらだら寝てばかりで、寝てる絵しかない。
ピーターラビットの映画も楽しいが、ポターに興味がわいたら映画もある。これはポターの恋愛も大きくストーリーに絡んで、彼女のたくましさは人生の悲哀が作ったものなんだと思わされた。