兎徒然

うさぎと暮らす日々、ときどきアート

絵画表現の追求ー阻止された小学五年編ー

 

  ブログを通して普段は他者に話せない、絵画にまつわる想いを語ってきたが、これを記事にすべきか、かなり迷った。

  どうしても、ある方法論への批判になってしまうから。でも、これこそ書くべきことなのかもしれない。特に教育に携わる方に見てもらいたい。

 

   7年ほど前に住んでいた福岡県春日市。ここの図書館が素晴らしく蔵書が豊富で、よそなら絶対ない美術書もバンバン入るのでよく通っていた。図書館の壁には時々、子ども達の絵画が貼り出されていた。

  私は子どもの絵を見るのが好きだ。それぞれの眼差し、大胆な構図、生き生きとした色使い、自信のある線。眺めていると、ハッとするほどの完成度の高いアートに出くわしたりする。画面の中にとてつもないエネルギーが込められている。

  その日は小学校の子ども達の作品があった。ワクワクとその壁に近づいていって、愕然とした。張り出された数十枚の子どもの絵を全体に眺めて、鳥肌がたった。

  言葉にできないほどの気持ち悪さだった。

 

  無論一枚一枚の絵には素晴らしさがある。けれど、同じ構図、同じ造形、同じような色使い…それが何十枚も並んでいるのだ。

  明らかに大人が先導して、子ども達に描かせた絵だった。

  顔は皆正面向き。目鼻口は線で強調され、白目の中の黒目は一様に下向きをあらわすよう上を空けて下部に書かれている。視線の先はリコーダーだ。肩からわしわしと伸びたぐにゃぐにゃの腕、そのさきには不自然に大きく、関節のシワが強調された指。指がおさえているリコーダーの穴も全部同じ。

  塗り方も、明度も彩度も、全部同じ。

 

  なんだろう、この感情は?

  絵を見ながらいいようのない怒りが湧いてきた。

 

  誰が何と言おうが、学校教育でこんな絵を描かせるのは間違っている。正直、これを見て、良く描けてるねとか、素晴らしい指導法だとか思う人はどんな思考で生きているのか、人間性に疑問すら感じる。

  これが、一様に素晴らしい素描なら、まだ納得できるのだ。早いうちから写実のデッサンを教え込むのも良いのか悪いのかわからないが、デッサンは描画においてベーシックな訓練だ。写実表現への取り組みの一環として授業でデッサンやりました、それならまぁ、わかる。

  でも、こんな、人体の骨格を無視した腕に、比率やパースを無視した指とリコーダー…不自然に下を向いていると思わせたいんだろう黒目の位置。これ、絵の下手な大人が、子どもに無理やり自分の絵を写させてるようにしか見えない。

  この絵がこどもらしい絵画表現だと信じて疑わず良かれと先導し、貼り出しているなんて自覚のないカルト宗教と同じだ。

  同じ様な指導法の絵の貼り出しに何度か出くわすうちに、私はそういった子ども達の作品を観に行くのを辞めた。

 

 この指導方法は〇〇式と言われ確立されたものらしく、これらの方法で子どもを先導したであろう絵が児童画展で入賞しているのをみるといたたまれない。

 

  これは算数でいうと、高校の数学ではこんな風にやるんだよ、と、小学生に解き方を教え、その方程式が間違っている、それくらい罪深い指導法だ。

 

 実はこの指導法の奔りなのか、私も小学五年の時に同じような指導を図工の時間に受けたことがある。

  教育、ということに熱心な先生だったんだろう。図工の時間、色々なことをやらされた。いつも具体的で見本があって、美術コンクールに出せる作品を児童に求めていた。

  「〇〇、体調が悪いなら無理するな、保健室に行くか?」

   そう声を掛けられた私は、図工の時間に塗り描けの絵を置いたまま保健室に行った。体調は悪くなかった。あの絵を描き続けることが嫌で嫌で仕方なかったのだ。

  

  O先生は芸術的センスが皆無だった。

  べつにいい。先生だって走るのが遅かったり、水泳が苦手だったり、習字が下手でもいい。人間だから、苦手なことの一つや二つはある。

  でも、O先生は芸術的センスが無いくせに図工の時間には自分の思った通りの絵を描くように口出しするし、その描き方はバカみたいに幼稚だし、ダサい。

  それでできあがったダサい絵に、O先生は心酔している。皆一様に29枚ならんだ同じ構図のダサい絵に。

  O先生の図工の時間は、この鍛錬してきた指先で全くいいと思えない絵を作ることを課せられた。絵画じゃなく、作業だった。その作業で生産された私の絵は、先月の県の絵画コンクールで入賞して廊下に貼り出されている。

  

  秋の遠足でぶどう狩りに行った時、O先生は児童にポーズを要求して何枚も写真を撮っていた。笑っちゃうようなポーズ。

  都昆布を噛みながら(ぶどうを食べ過ぎて塩気がほしくなった)、私は輪から離れて眺めていた。あの人、まさかアレ描かせるんかな…。

 

  予感は的中した。

  遠足が終わった翌週から、ぶどう狩りの絵の制作は課せられた。まず、例の写真が広げられた。ぶどうを持った右手は頭上に高く上げられ、児童はあーんと口を開け、左手はパー。モデルが違うだけの写真が何枚もあった。(せめて3パターンくらいないのか?)

  その写真通りのポーズを、二人組みになって交互にしなければいけなかった。

  ぐにゃぐにゃ伸びる腕も不自然な顔の形の指導もスルーし、ポーズは変だが人物デッサンをやるつもりで描いた。そこからは自由になると思ったが、色を塗ろうとしたらO先生は、青と赤を混ぜる比率まで指示し、紫を何パターンか作った。ぶどうの粒を全部違う色で塗れという。

  たしかにぶどうは一色じゃない。でも、ぶどうの一粒にも明暗があって一色じゃない。ここは得意のたらしこみでいきたいが、そうもさせてくれない。筆をトントンして色を置け、という。そのテクスチャはぶどうのツヤや丸みと正反対じゃ?

  そこからはもうヤケクソだった。O先生は特に私の周囲で先導を続けた。

 

  絵画コンクールに出されたのは3人だった。子どもからしても、え?あの同じ構図の絵3枚出したの?作文なら3人同じ内容だよね?まぁでも審査する人も3枚ならべば、先生が描かせたのも解っちゃうよなぁ。

 

  そしたらまさかの入賞。人生で一番要らない賞だった。審査する側にも問題はある。

 

  O先生はユーモアがあり、授業はいつも楽しませながら進めていくので、生徒に好かれていた。色々な受賞を生徒にもたらした良い先生に見えていただろう。

  学年末の大掃除の時間、私は昨日ワックスをかけられた床を磨く係だった。ワックスをかけた床は、何となくじゃなく一生懸命磨くと築80年の校舎が内側から力を蘇らせたかのように光るので、一番好きな係だった。工具をぶら下げて、浮いた床や、ささくれを丁寧に直す校長先生の手元を見るのも好きだった。

  「ちょっと、校長先生!」

  やかましやのMが入って大声で呼んだ。

  「O先生が私たちの作品を焼却炉に入れたんだよ!」

   何事かと、焼却炉のある裏庭に行く。

   校長先生はO先生を制し、二人はそのまま校長室に消えた。

  何人かの絵はもう焼かれていた。

  普段図工に興味のないMは、これでもかというくらい騒ぎO先生を糾弾した。

 

  燃えたのか、それはそれでスッキリだな。

 

  そう思って教室に帰ろうとしたが、私の絵は中央廊下の額に入れられて、まだあーんしている…。

 

  覇気なく教室に入ってきたO先生はホームルームをあっさり終えた。

 私は、帰る前に中央廊下に立ち寄り、額から自分の絵を抜き取ると焼却炉に向かった。

 ギギィと扉を開けて千切った絵を放り込んだ。

 

  私が描いたものを破ったのは生涯でこの一枚だけだ。

 

  O先生に悪気は無い。

  けれど、アートに感動する心が無いなら、見せかけだけの指導で体裁を取り繕わないことだ。

 

 

  絵が苦手だけど、教えないといけない。それは大変!でも、必要な指導はまず自分の眼に。自分の心に。

  

 

  先生も絵は上手く無いんよー、でもよくみて描こう、一緒に描いてみよかな。ピカソとかルノワールとか色んな描き方があるなぁ。皆んなはどれが好き?

 

  これで良いと思うのだけれど。  私は。

  

 

 

カラー版 絵の教室 (中公新書)

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